読書通信2013年6月号

この欄もいつの間にか100回を数えた。取り上げた本は400冊にのぼるが、良書390冊余を楽しめたことはありがたいことであった。読書の楽しみを超える楽しみはなんだろう。良い音楽、良い絵画、おいしい食事、楽しい会話、どれもすばらしいが、書物がこの世に生まれたことに改めて感謝したい。

① イノベーションこそ大事だと言われて反論するのは勇気がいる。だが、イノベーションが技術の高度化という意味でしかなければ、そこには大きな落とし穴がある。日本の産業界が苦吟しているのはその落とし穴と深くかかわっている。
三品和広+三品ゼミ『リ・インベンション』東洋経済新報社、2100円)は、イノベーションが生み出したものが必ず消費者に受け入れられるわけではない、受け入れられたとしても企業の利益には結びつくとは限らない、と主張している。確かにイノベーション神話にこだわった後にはしばしば厳しい現実が待っていた。ではどうしたらいいのか。顧客のニーズに応える、技術力より構想力を重視する、高性能・高機能化より新たな評価軸に沿って開発する、などがリ・インベンションだとして、具体例が紹介される。自転車用の見えないヘルメット、羽根のない扇風機、アイパッド、ウォークマンなど九つの例が挙げられ、どうリ・インベンションするかのヒントが縷々述べられる。日本企業が他社と性能やコストだけで差を競う愚を一日も早く脱却せよという結語は説得力がある。

② 「こうかろん」と打ち込んでもワードでは黄禍論は出てこない。さすがに辞書には出ているが、今やほとんど死語なのだろうか。試しに「おうか」と打ち直してみたがもとより出てこなかった。イエローペリル(yellow peril)の直訳だが、「黄色」人種の肌の色は絵の具の黄色とはだいぶ違う。
二つの大戦をはさんだ頃には欧米では、「日本と中国が手を結んだら」黄色い危機が生じるだろうと真面目に心配された。飯倉章『黄禍論と日本人』中公新書、903円)は欧米のマスコミに載った一こまマンガ140点余を収録して当時の欧米の対日論調がどのようだったかを解説したユニークな力作である。対日関係の良し悪しによってマンガも微妙に表現が変わる。日英、日ロ、日米など合従連衡が目覚しく変化する時代だけに、当時の世界情勢と日本(猿か狐が多い)をマンガで知るのは好都合だ。解説の文章は簡にして要を得ているが、惜しいことにマンガが小さくて細部が読み取れない。で、虫眼鏡を使ったら面白さが倍増した。近現代史を学ぶ良い教材になる。
③ 貧乏作家に富豪作家。時代によって作家の懐は大きく変化した。山本芳明『カネと文学』新潮社、1365円)は明治から現代まで、作家たちが生活苦と高額所得の間で良くも悪くもカネに振り回された姿を追っている。出版社に原稿を売り込む苦労、知り合いに借金を頼み込むあの手この手、有名作家となって大金をものにしながらあえなく挫折する顛末などが詳細に描かれる。出版社側の事情も書き込まれていて「文壇カネ事情」の趣。異色の文学史ともいえる。
④ マティス、ドガ、セザンヌ、モネの四人を、家政婦、女流画家、画材商の娘、モネの娘の目(四人とも女だ)で描いた原田マハ『ジヴェルニーの食卓』集英社、1470円)は、絵画好きの人には堪えられない題材だろう。画家の内面を虚実ない交ぜにした描写で描き出した構成が見事だし、何より話者と画家との距離感が絶妙だ。画家たちの思い、苦悩、愛がやわらかく切実に伝わってくる。心に残る秀作である。